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●サザンカ02.11.24
●カヤ02.10.13
●クルミ02.09.28
●ホオズキ02.09.23
●アキグミ-202.09.23
●アキグミ-102.09.08
●コスモス02.08.31
●サルスベリ02.08.23
●トキワハゼ02.08.20
●ネムノキ02.08.18
●コウホネ02.08.13
●キツネノカミソリ02.08.12

カヤ
02.10.13
カヤ葺き屋根に使われていた「カヤ」、あれは何だったのだろうか。辞書をひいてみるとススキやチガヤ、スゲなどの総称とか、あるいは単にススキの別名と書いてある。しかし、私の子供の頃の記憶を辿ると、明らかにススキとは別物だ。
ススキは大きな株から数本あるいは10数本の茎を伸ばし、大概、斜に生えてきて穂をつける。高さもせいぜい2メートルで容易く折れる。「カヤ」は真直ぐ3メートル近く伸びて、竹のように堅い。しかもススキより少し太めだ。何よりの証拠は、当時ススキはあちこちに生えていたが、決してススキのことを「カヤ」とは呼んでいなかったことである。

庄内の農家は、米の供出や庄内柿の出荷が終わると冬支度に入る。ダイコンを干し、味噌を作り、漬け物を漬ける。そして、11月の天気のいい日は、村総出でカヤを刈る。刈り取ったカヤは直径10cm程度の束にして数カ所結わえ、馬車に積んで村に運び、必要な分だけ各家々に配分される。それは、その冬の雪囲いとなり、次の年はカヤ葺き屋根となる。

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▲赤川のススキ

赤川の河川敷には、いたるところに広いカヤ原があって、子供にとっては絶好の遊び場だった。
初夏、葉がまだ青々としている頃は野鳥の住処になっていて、雉子のつがいに出会うこともあった。カネタタキという鳥の雛を拾って帰ったこともある。ひよこほどの大きさで真っ黒でふわふわの産毛が生えている雛だ。結局育てきれなくて死んでしまったのだが、その時は大泣きしたものである。 秋になり、丈が3メートルほどになって穂をつけるようになるとまた別の楽しみが待っていた。
カヤ原には人一人がようやく通れるほどの踏み跡があり、中で迷路のように交差したり分岐したりしている。釣り人や子供達が通る道だ。小さい頃はそこに迷い込むと方向が分からなくなり、なかなか出られなかった。突然川っ縁に出て釣り人と出会ったりする。迷うことがまた楽しくて、わざと狭い踏み跡に入っていったりした。 台風が来て、カヤ原がたまに水没することがあるのだが、その次の日、水が引きかけた頃を見図って行くと、カヤの根元の隙間にクキ(赤い腹をした30cmくらいの大きなハヤ)が引っ掛かっていて、ばちゃばちゃと暴れている。いくらでも手づかみにすることができた。
春になり、雪囲いから外されたカヤは長さ60〜70cmに切り揃えられ、50cmほどの束にされて軒下に積み重ねられる。その年のカヤ葺き屋根の材料に使われるのだ。 その頃になると、カヤは今度は子供の弓矢となって活躍する。屋根の葺き替えには長さ約1メートル、幅3cmくらいの竹を使う。それがカヤと一緒に積み上げてあるのだから、弓矢にして遊んでください、といっているようなものだ。 竹は紡績糸の弦で弓になり、カヤは先に蓄音機の針を結び付けて矢になる。カヤは真直ぐなので命中度はかなり高く、これで鳥などを狙うのだが、かつて捕まえたことはない。
あれは梅雨の頃で、夕方にひどい雷雨になったことがあった。近所の子供達5〜6人が、寺の庭先で空き缶を的に弓矢で遊んでいた時のことである。ものすごい豪雨となり、寺の玄関に逃げ込んでそこから、10メートルほど先の地蔵堂の地蔵様を的にして矢を競っていた。矢は地蔵堂に何本も突き刺さり、中には、地蔵様の「よだれかけ」に命中しているものもあった。私が何本目かの矢を放った瞬間、この世の物とは思えない轟音と同時に、突然目の前が真っ白になり体が痺れた。落雷である。門のところの電柱が青白い火花を吹き出したのを覚えている。子供達はみんなうずくまり、小さい子は泣き出した。みんなで「地蔵様の罰があたった」と大真面目で話し合った。 落雷があってしばらく激しい雨が降った後は、からっと晴れ上がり真っ赤な夕焼けになったのだが、それからが大騒ぎ。隣の家のおばあちゃんが落雷で死亡したことが分かったのだ。窓際にある台所で野菜を切っている最中に、使っていた包丁に雷が落ちたらしい。窓ガラスは破れ、床には穴があいていたという。その時、家には誰もいなくて、田んぼの水を見に行った父親が帰ってきて分かったのだ。村始まって以来の大事件だった。
地蔵様に向けて矢を打ったことは絶対秘密にしようとみんなで誓いあったことはいうまでもない。

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▲田麦俣民家のカヤ葺き屋根

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「カヤ」はかつて、暮らしや遊びに欠かせない雑草だった。しかし、今は見かけない。昔、カヤ原だった場所は今、畑や荒れ地になっている。カヤ葺き屋根など、羽黒山の合祭殿くらいしかないのではと思えるほど、無くなってしまった。羽黒山の合祭殿はカヤを調達するのに非常に苦労したという話も聞いた。葺き師といわれる人たちがいて、夏になると数十人の葺き師たちが村中を回って次々と屋根を葺いていた。私はいつもわくわくして見ていたものだが、そんな光景を今の子供達は見たことがないのだ。