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野の花図鑑
私の庄内物語
無一庵
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トップ  >  001. 過去へ

人の意識というものは、常にその人の過去に左右されているのではないかと、近頃とみに思うようになった。

生まれ育った時代、場所、親の職業、家族構成、生活状況、言葉、教育、といった子供のころの自分を取り巻いていた環境が、好きとか嫌いとかにかかわらず、知らない間に自分の人間形成の基礎となる。人間は、いろいろな経験の積み重ねによって生きている。経験を積むことによって進歩し変わっていくと考えられる。経験とは過去である。言わば、人間は過去の積み重ねによって生きている。夢や未来を語っているのは、過去の経験なのだ。今の自分があるのは、過去の自分があるからだと考えてみるとき、過去の自分とは何だったのか、改めて問い直さないではいられない。

これは、自伝のゴーストライターを職業としている友人に聞いた話だ。

人はある程度の財をなし名をなすと自伝というものを書きたくなるものらしい。中小企業の社長や地方の有力者、政治家などを相手にした、自伝作成業のような商売があるらしいのだが、近頃では、会社を定年退職した普通の人でも、退職金で自伝を出版するのが、静かなブームになっているらしい。いわゆる自分史というやつだ。出版社が用意したゴーストライターと呼ばれる執筆者が、数時間取材するだけで「○○半生記」のようなものが手軽にできてしまう。

あまり多くは知らないので、すべてがそうだというわけではないが、その友人聞いたところによれば、ほとんどの人は、子供のころの生活の苦しさ、淡い初恋、下積み時代の苦労、成功のきっかけ、子供や若者に託す夢といった構成の物語になるそうだ。誰でも自分の過去は美しく見せようとするので、そうした美談のかけらを聞き出し、それを膨らませると喜ばれるらしい。基本的には、ゴーストライターの頭の中に、自伝作成マニュアルのようなものがあり、そのマニュアルにのっとって取材するため、誰の自伝もみな、同じようなものになってしまう、ということのようだ。

自分の半生をプロのライターに書いてもらう、という感覚は、私にはわからない。過去をどんなに飾っても、今の自分が変わるわけもない。しかし、自分の過去を残したいという気持ちは、私にもある。かといって、よくある自伝のように、生まれた時から現在までを、川の流れのように叙述しようとは思わない。成功しているわけでも名を残したわけでもないので、そんな事には何の意味もないからだ。それではどんな過去を残したいのか、はっきりとしたものがあるわけではないのだが、少なくとも、自分がある時間、この世の中に存在したのだと言うことの証となる何か、当然そうした何かはあるはずなので、それを探してみようと思う。ようするに自分の存在証明となる何かだ。

 

 

 

 

 

▲私が生まれて育ったのは、山形県の庄内地方。鶴岡市郊外ののんびりとした田舎。家は曹洞宗の寺で月山の麓の赤川のすぐ傍にあった。
この写真の川の左側、屋根が白く光っている辺りが私の家があったところなのだが、現在は、後継ぎがいないために廃寺となって、来年の春には取り壊されるようだ。
この写真を撮った場所は、羽黒橋と言う橋で、中央にある山が月山、下を流れるのが赤川。
子供のころは、毎日この川で遊んでいた。水泳ぎ、雑魚しめ、釣りなどはもちろん、グミの実や桑の実を取ったり、カブトムシ、クワガタなどを捕まえたり、冬は土手でスキーやソリを楽しんだり、思い出はつきない。
高校時代は、毎日自転車でこの橋を通っていた。学校の帰り道、ちょうど月山に雪が降って綿虫が飛ぶ頃に、月山は一番きれいで、残照が頂上近くの雪に反射して輝いていたのを、橋の上から眺めたものだ。忘れられない大好きな風景。

 

 

いま、自分の過去を思い出そうとしているのだが、なかなか思い出せないものだ。特に子供のころのことは、あるシーンを断片的に覚えているだけで、その時に話した言葉とか前後の成り行きなどは、まったくと言っていいほど覚えていない。

いろいろなことをして遊んだ記憶とかがあり、それが素晴らしいことのように思っているのだが、実はよく考えてみると、それは、ほんのひと時のことでしかなかったりする。 例えば、川に潜って大きな鯉を捕まえたことや、いつも釣りばかりしていたこと、月山の真っ赤な夕映えや夜中に兄と星座を探したことなど、子供のころはいつもそんなことがあったように思っていたが、実際は小学校六年生の時の夏休みのほんの一日のことだった、なんてことになる。楽しかったり悲しかったりした思い出は、どうも、自分の頭の中で拡大解釈され、美しいものとして残されているようだ。

高校、大学、社会人と時代が下がるにつれ、記憶もしっかりしたものになってくるが、それでも、その時、どんなことを話したといった細かいことまではほとんど覚えていない。文字や絵に書き残してあれば、それを見ることで思い出すことはある。「今日はサンマが安い、三本18円」といったメモを見つけただけでも、その時の光景をぱっと思い浮かべることができる場合もある。どんな些細なことでも、何らかの形で記録し、残しておけば、あとから自分の過去を思い出す時の助けになることは確かだ。

 

ここでは、プロフィールを書くつもりだったのだが、ただのプロフィールではつまらない。単純な履歴書の様なものからは、その人の何も見えてはこない。

いまさら、こんなことを書いて何の役に立つかわからないが、思い出すことを、忘れないうちに書き残しておこうと思う。また、書くことによって忘れていたことを思い出すということもある。

少なくとも、これらの思い出が、私という人間を形成した一要因であることは間違いない。自分が生きてきた時代時代の風俗や文化などを中心に、その時自分は何を考えていたのかなど、思い出す限り書いていきたい。順序立てて思い出すことはできないし、本当にそうだったのか、現実なのか夢なのか、想像なのか曖昧なこともあるので、思いついたことから無秩序に書くことになる。

ということで、タイトルも「夢うつつ」とした。 ちょっと前置きが長くなりすぎた。まずは、私の最初の記憶から書いてみたい。

 

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