画像
野の花図鑑
私の庄内物語
無一庵
画像
トップ  >  002. 最初の記憶

何歳のころかはわからない。私は、農道を泣きながら歩いていた。おそらく、知らない間に母が畑に行ってしまったので、それを追いかけて行ったのだと思う。

記憶とは不思議なもので、その時の情景が、本人の目から見た情景ではなく、第三者の目で、しかも俯瞰で描かれることだ。

この時の記憶は、その前後などはまったく覚えていなくて、ただ、泣きながら歩いている自分が見えるだけだ。3歳から4歳頃だろうか、記憶とも言えない記憶。

その次の記憶、というより、これが最初の記憶と言ってもいい、おそらく学校に入る直前、5〜6歳の頃だと思うのだが、その頃のことになると、やはり断片的ではあるのだが、かなりいろいろなことを覚えている。

確かな記憶と言えるのは、この頃からだ。

思い出すままに、その頃の記憶を羅列してみよう。

 

○実家は曹洞宗の寺で、祖父は、毎朝、暗いうちから本堂でお勤めをするのが日課だった。

毎朝、その鐘や木魚の音で目が覚め、起きて行っては祖父のそばに座わりお経を聞いていたものだ。

お経は今でも断片的に覚えていて、何も考えなくてもすらすらと出てくる。

祖父はお経の合間に色々な事を話してくれたが、どんな話だったのかはまったく覚えていない。

 

○冬、庄内平野は吹雪で明け暮れる。母の実家が10キロほど離れた月山の麓にあって、お盆と正月には毎年一週間近く遊びに行ったものだが、はっきりと覚えているのは、やはり5〜6歳の頃の正月に、母親の実家のわかぜ(男の使用人のこと)が、馬橇で迎えに来た時のことだ。

兄弟4〜5人(私は7人兄弟の5番目だった)と母親が馬橇に乗り込んで、頭から毛布と布団をかぶり、吹雪の庄内平野に出たのだが、ある村はずれのところで、吹雪で寄せ集められ山(ふき山と言う)となった雪の中で、橇が動かなくなってしまった。 みんなで雪を手でかき、そりを押してそのふき山をやっと脱出したのだが、その時の吹雪のすごさは、今でも忘れられない。

私は、母親のマントの中に入って、風に飛ばされないように足にしがみつきながら泣いていた。

 

○その時の正月だと思うのだが、母親の実家で、赤い着物を着せられ、囲炉裏の傍で踊ったことを覚えている。

土間を上がったところに囲炉裏があって、その横の壁の高いところには、天狗と狐のお面が飾ってあり(このお面は、その後もよく夢に出てきて、よるトイレに行くときにその前を通るので、こわくてたまらなかった)、その前で踊らされたのだ。 とてもほめられて、おじいちゃんになぜかお金をもらったのだった。

 

○なぜか朝鮮戦争のことも良く覚えている。

昭和25年頃、毎朝、訪ね人とか引揚者の名前などを読み上げるラジオ番組があって、家では大きな音で良く聞いていたのだが、その後のニュース解説の様な番組で、朝鮮で戦争が始まって、日本も危ないと言うようなことを毎日のように話しているのを聞き、私は、戦争と死ぬことが怖くてたまらなかった。

祖父に、死ぬとはどういうことかと聞いたことがあった。祖父はいろいろ話してくれたのだが、今でも覚えているのは、死ぬのは眠ることと同じで、ちっとも怖くはないということ。しかし、死ぬと両親や兄弟が悲しむので、死んではいけない、ということ。

どうしてそんなことを覚えているのか不思議でならない。

 

○初めて映画を見たのもこの頃だったと思う。

母親にもらった50銭札を数枚握りしめ、兄に連れられて、学校の校庭に作られたスクリーンで見たのが初めてだった。

映画の題名は覚えていないが、戦争のニュースの様なものだったと思う。空から焼夷弾の様なものが鼠の糞のように落ちてきたり、洞窟の中を火炎放射機で燃やすと、中から兵隊が手を挙げて出てくる、といったシーンの連続だった。

校庭で見た映画は、その他にも、美空ひばりが杉作の役で出てくる鞍馬天狗とか、警察日記とか、ヒロシマとか、上海帰りのリルとかいろいろあるのだが、年齢的にはもう少し後だったかもしれない。

 

○学校というものの中に初めて入ったのもこの頃で、兄が6年生の時だったから、私は小学校に入る一年前のことになる。

たしか日曜日か何か、学校が休みの時だったのだが、兄に連れられて、学校に行ったのだ。たぶん、兄は、母に私の子守を言いつけられたのだろう。

なぜか連れて行かれた教室の中には、数人の女の子がいて、かわいいとか言われながら、追いかけられ泣かされたりした。その時の女の子が、とても大きく見えて恐怖を覚えたのだ。

それでも長い廊下や家の中の広い階段などが珍しく、学校中を走り回ったり、机に座って勉強のまねごとをしたりして、とても楽しかったのを覚えている。

 

その他にも、鶴岡の天神祭に行って、ガマの油売りを見ていて親にはぐれてしまったこと、その同じ日に、サーカス小屋の前につながれていた象に見とれて、またもやはぐれてしまって、公園の濠端で泣いていたこともあったし、また、これは、兄に口止めされて、いままで誰にも話したことがないのだが、兄と川に遊びに行って、流され死にそこなったことなどもあった。

みな同じ頃のことだ。 この頃の記憶は、ほとんどが怖かったことや悲しかったこと、さびしかったことなどで、楽しかった記憶はほとんどない。

いつも泣いていたように思う

プリンタ用画面
投票数:33 平均点:3.33
前
003. 雑魚(ざっこ)しめ
カテゴリートップ
夢うつつ
次
001. 過去へ